痛みを負う
鹿児島ルター君の朝のみ言葉
「痛みを負う」
イザヤ 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。
中央線を四谷から三鷹まで利用しました。東京の電車にはテレビモニターがついており、いろんな情報を教えてくれます。天気、ニュース、マナー講座、今日の一品など。その中に「ネット検索用語ランキング」というものがありました。ネットで検索するキーワードで一番多いものは何かということです。1位は「痛み」でした。とても以外でしたが、「痛み」というキーワードが意味しているものを考えてしまいました。たぶん痛みには「心」と「体」の両方があるのでしょう。痛みを取りのぞきたい、痛みから解放されたいという思いから、なんとかしたいと「痛み」という言葉で検索をされているのだろうと思います。しかし、痛みを完全に取り除くことはできません。痛みがあるから生きているという実感もあるでしょう。痛みには深い苦しみと嘆きも感じます。この痛みと共に生きていかねばなりません。でも、痛みを軽くすることはできます。痛みを共に負ってくださる存在に気がつくことです。
イザヤ書の中にある「苦難の僕」として有名な箇所です。イエス様の十字架の苦難を預言したものです。まさに十字架の出来事がここにあるといえます。「軽蔑され見捨てられる」イエス様の姿に心が痛くなります。
注射というのはいやなものです。とくに『痛い』ことがいやです。ところがとってもいい話を聞きました。痛みを和らげる方法です。それは、注射の数秒前に太腿をつねるという方法です。これをやると痛みが半減します。この方法は、麻酔科のお医者さんが発見し、学会に発表された説でもあります。なぜ痛みが半減するか?それはハリ療法がなぜ痛くないかと一緒です。つまり人間の体は、たくさんの痛みのなかで、一番刺激の強い痛みだけを感じるという性質をもっているのです。ですから、ハリ療法は押手というテクニックを使うのです。すると注射の前に太腿をつねれば、注射の痛みよりも刺激が大きいので、痛みが半減するというわけです。自分の痛みしか見えない人はその痛みに苦しむ。しかし、キリストが十字架の上で、それ以上の痛みを感じてくださったことを知る人は、キリストの痛みゆえに、自分の痛みが和らげられるのではないでしょうか。
イザヤは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。」と告げています。あなたの痛みを知って、共に負っている方がおられる。その方の存在に触れたとき、痛みは軽くなると思います。イエス様が十字架でしめしてくださったのは、この痛みを共に負うということだったといえます。心・体にみな痛みを持っています。それを共に負い合う教会でありたいものです。